私のプラントエンジニアとしての経験・キャリアの話です。
今回は7~10年目くらいの間のことです。
部下育成を行うようになった段階。
シリーズものですので、先に以下の記事からご覧ください。
入社7年目~8年目
入社7~8年目は、入社5~6年目より若干大きなプロジェクトを担当しました。
20億円程度のもの。
このクラスの仕事となると、工場内でも数年に1回あるかどうかの世界になって、担当できるかどうかは運の要素が入ってきます。
当時は、以下のことが特に大きな課題でした。
- スピード重視と本質的思考
- 上司と部下との関係
- 部下の仕事管理
仕事のスピードを重視
入社7年目のプロジェクトは、スピードを重視しました。
プラント内の設備構成や思想は、これまでに経験したものとほぼ同じです。
それならば、これまでよりももっと効率的に仕事を処理して、後工程に迷惑を掛けないようにしよう。
この思考をテーマにプロジェクトを担当しようとしました。
本質的思考を疎かに
当時の上司は、本質的な思考を重視していました。
それまでの上司は、そこはある程度妥協してスピードを重視。
ですが、当時の上司は徹底して考えさせようとしました。
今ではパワハラと認定されかねない行為。
- 自身は椅子に座っている
- 部下を机の前に立たせて、1時間以上議論
- 再検討しても、さらに検討を要求(結果、仕事が進まない)
プロジェクトの内容としてはプラント建設に極めて近いもの。
単なる増改築プロジェクトではないので、プラント外の各種ケアが必要になりました。
考える設備の数や選択肢の数など幅が広い。
ここに気が付いていれば、上司の言うことにも納得できたでしょう。
そういうことを上司が言うことはなく、ただ単に検討内容を論理的に主張。
断れない私や部下。
それで仕事が遅れて後工程に迷惑が掛かると主張しても、こう返ってきました。
迷惑を掛けたらいい
今なら、アウトっぽいですね。
もちろん本質的思考は大事なことで、それまで疎かにしていたことは結果的には良くなかったかもしれません。
この段階で、プラントエンジニアでも本質的な思考が必要ということに気づかされたことは、今になって効いています。
スピード重視でなんでも処理してしまうと、考えることを放棄しますからね。
自信がないけど部下に説明
初めて部下にちゃんとした指導をするので、緊張したことを覚えています。
部下は入社1年目。
基本的なことから教えます。
- 自分の理解や説明方法はあっているだろうか?
- 部下はちゃんと理解しているだろうか?
こんなケアをしていたと思います。
今の若手のように、メモを取らない・質問しない・感謝しない、というわけではないので、指導に苦しんだ記憶はあまりありません。
ただし、自分の理解が間違ってなくて人から指摘されても考えを変えない頑固な性質を、その部下は持っていたので多少苦労がありました。
この頑固さも今の若手はもっと強いですね。。。
上司が私をパスして部下に指導
当時の上司は、私をパスして部下を指導することがありました。
ライン的には、「上司」-「私」-「部下」という3人構成。
私が部下に指導をして、その書類を上司に提出したら、
上司は部下だけを呼び付けて、議論。
ここで、私が飛び込んでいけば良いのかどうか悩みました。
時には手助けのために議論に参加しましたが、しなかったことも。
自分の説明が間違っているかもしれないので、それを確認したくないという想いがあったのかもしれません。
上司が部下しか呼ばなかったとしても、気が付いたなら即参加するという風潮は当時はありませんでした。私もそういう扱いを受けてきました。
だからこそ、当時の部下は可哀想だったなと反省しています。
今では、かなりアウトな行為をしていたのでしょう。
部下が納期を勘違い
部下には、簡単な設備設計や一部の資材発注管理を依頼していました。
1年目の設計者としては珍しくありません。
資材発注もかなりスムーズに進めていました。
ところがある資材の納期が工期に間に合わないことが分かりました。
最初に発注する資材のリストを作って、おおよその納期を調べて、長納期や高額の物から発注する、という基本が雑でした。
それを管理することを私も怠っていました。
結果的には何とかなりましたが、後始末のために奔走した記憶があります。
管理自体は部下の自主性に任せていました。これが成立しなくなってきた時代でしょう。
今では上司から指示しないと管理をやってくれなかったり、その進捗報告を指示しないといけなかったりと、かなり手間を取らされますからね。
それでも後始末の方法さえ部下に伝えれば、自主的に最後まで対応してくれましたし、失敗も十分に反省してくれました。
入社9年目
プロジェクトもひと段落して、入社9年目は日常的な仕事を担当することに。
部下も担当が変わって、別の人が部下になりました。
- 周りが見れるようになった
- 関わる人が増えた
組織内での担当量はトップ
入社9年目になって、組織の中で担当する仕事の量は圧倒的にトップでした。
金額だけなら他の人の2倍くらい。
この意味をあまり深く考えずに、処理できる力があることに自信を持っていたと思います。
酔いしれるという意味ではなく、他の人が処理できる限界が低いという事実を知ろうとしませんでした。
今になってとても大きく響いていることです。
後輩の雑な仕事を引き継ぐ
プロジェクトが終わって担当が変わった時、前任の後輩の仕事を引き継ぐことになりました。
ここで、後輩の仕事が雑であったことを覚えています。
スピード重視でとにかく早く仕事を処理してきた自分からすると、
えっ、ここまでやっていないの?
とショックでした。
2~3歳下の部下で仕事が全然進んでいなかったから、不公平感を覚えたくらいです。
目の前のことを処理するのに、必死で声を大きくすることもありました。
このころから、炎上案件の火消し担当に割り当てられるようになったのでしょう。
先輩が不器用な仕事をしている
当時は不器用な仕事をしている先輩のフォローも行いました。
1人で担当できそうなプロジェクトだったのに、器用に進めれなかったので応援として設計を一部しました。
先輩でも仕事ができない人が居る。
当たり前の話なのに、今まで目を向けていませんでした。
この辺りから、自分のことだけでなくて周りが見えるようになった来たのでしょう。
逆に言うと、周りを見れるようになるにはそれなりの経験と時間が必要ということ。
この事実から目を背けていたことも、今になって大きく響いています。
丸投げの部下
2人目の部下は、分からないことを丸投げする部下でした。
分からないことを自分で考える力があまりなく、時間だけが経つ。
そのことをよく理解していため、分かることをスピード重視で処理しようとしていました。
だからこそ、分からないことは積みあがっていく。
偉い人からの指示がたいていそういう性質のものなので、どんどん溜まっていきます。
そうすると、上司も進捗を気にして私が大きくフォローする部分がいくつかありました。
これくらいなら今では当たり前のことですよね。当時は、そこまで多くはなかったと思います。
関わる人が増えた
当時は昇進したこともあって、関わる人が増えてきました。
具体的には、課長クラスへの説明だけでなく部長クラスへの説明をすることが増えてきました。
部長と直接仕事をすることは、この時期からするのが当然のことと思うようになりました。
ところが、周りの人はそんなことはあまりなかったようです。
この人に聞けば間違いない
幸運にもそう思われていたということです。
逆に、部長と直接話をする機会がない人は・・・・ということですね。
入社10年目
入社10年目は転換期でした。
エンジニアリングが嫌になる
当時は、ある事情によりエンジニアリングが嫌になりました。
- 自分の仕事は付加価値があるのだろうか?
- 周りのエンジニアの付加価値はもっと低いだろう
こういう想いが強くなってきて、オーナーエンジニアとしての自部署に疑問を持つようになりました。
すぐに変わることは無いにしても、先は明るくないかも知れない・・・。
そういう危機感が少しずつ芽生えてきました。
この時くらいから、製造から生産技術に対する信頼感はかなり下がっていたようです。
生産技術内にいては気が付かないことですが、周りからそういう声を聴こえるようになっていました。
成長の限界が見える
10年も経てば、エンジニアとしての成長の限界が見えてきました。
部下育成やマネジメントを学ぶことは可能です。
ただし、それ以外のことで学ぶことはかなり少なくなりました。
この年に仕事で印象に残ったことはほぼありません。
何の仕事をしたか覚えていないくらいです。
この後、ちょうどいいタイミングで、ローテーションがありました。
まさに転換期ですね。
最後に
入社7年目~10年目の私が化学プラントの機電系エンジニアリングで部下育成をした時のことを振り返りました。
上司と部下の間に挟まれるようになったり、先輩後輩の仕事が雑であることに気が付くようになったり、関わる人が増えるようになるなど、経験値としては増えていきました。
その結果、エンジニアリング自体が嫌になり成長の限界も見えてきた時期です。
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