年度末の良い機会に、6年間を振り返ろうと思います。この6年間は仕事の点で大きな転換点になっているだろうと今になって思います。転換は過去にもあったのですが、気が付いたら元の仕事に戻ってしまった状態からスタートした6年です。
言語化しておかないと、後になって忘れたということになりそうなので。
守破離の「破」
会社人生を守破離の3段階で考えたときに、この6年は「破」から始まったと思っています。
忠実な「守」だけで10年
会社に入って10年間は、「守」のフェーズだったと思います。上司から言われたり、相談してもらった最速の答えを忠実に実行していく日々。あまり考えなくても成果が出てしまい、周りからはそれなりに評価されます。
ところが考えるということをしないので、何か問題が起きたときに困り出していきます。保全での設備のトラブルが起きたときに、その場でどう解決するか(応急策)・今後の対策はどうするか(恒久策)を考えるときに、考え方の基本ができておらずに困り出しました。
製造経験を経た「破」のチャンス
このタイミングで、エンジニアから製造に異動をします。さらに海外経験を経て、自分がした判断が即結果となって返ってくる醍醐味を知りました。機電系エンジニアだとプラント運転の瞬間部分にしか触れられないので、斬新でした。
周りに丁寧に教えてくれる人はおらず、自分の判断が全て。緊張もしましたし疲労も溜まりました。それでも、一定期間を製造に真剣に取り組んだことは自分の引き出しを増やすことに大きく役に立ちました。
いろいろとトライができるので、守破離の「破」を自ずとやっていたのでしょう。
コロナ禍の大騒動で機能
製造経験を経た後で、エンジニアの職に戻ってきました。ここからが6年の始まりです。当時はとても嫌な気分でした。
というのもエンジニアの仕事って、製造経験に比べると考えることが少ないからです。
決まりきった方法を淡々とこなしているだけ。これでいいのだろうかと、不安になるのが1年目。2年目にコロナ禍で物流の問題が起きました。エンジニアとしても設計が遅れ工事ができなくなる大問題。当時は工期必達の風潮が残っており、通常の方法で考えていると太刀打ちできません。
そんな中で、「破」を見事に体現していきました。分割発注、先行発注など、設計の途中途中で発注をして納期工期を確保していく方法。今となってはマネジメントとしては当たり前なのに、過去の成功例である一括発注に縛られていたのでしょう。
あまり面白くないと思っていたエンジニアの仕事にも、工夫をすることはできるのだ。そう見直し始めました。
能力評価と諦め
そうこうしているうちに管理職に昇進しました。ここからが闇の始まり。
仕事の管理より人の管理の方が大変とよく言われますが、まさに当てはまってしまいました。自分でいろいろ工夫して仕事をしてきたのに、周りはそんなことはほぼしない。いつも通りの仕事ばかり。仕事の仕方を変えるアドバイスをしても、何もしない。
そんな日々でした。
コロナ禍で休む人も続出。指導が厳しかったのか病む人も出てきました。管理職になると自分が手を出さなくても良いはず。そう思っていたのに、自分が仕事をしないといけないことに惨めな気分になりました。同時に、疲労が蓄積していき、自棄酒も増えていきました。
部下指導を、「今よりも良くしよう」「元の良い状態に戻そう」という前向きな思考で取り組むのは諦めました。「今より落ちていくことは確実だが、その速度を低下させる」ここに特化することに。方針転換するまでに2年は掛かりました。
同時期に他の部署も同じように苦労していたのですが、一部署のマネジメントだけをしていると見えてこなかったです。
手段と予想される効果の選別
6年間の後半には、エンジニアから少し離れた仕事をしました。工場全体のマネジメントに近い仕事です。
機電系エンジニアの個々の担当へのマネジメントではなく、部署間に対するマネジメント。組織である以上、接し方や求めるレベルは機電系エンジニアよりも高く気分も楽でした。お願いすれば、それなりの期間で成果を出してくれるのが、こんなにありがたいとは思いませんでした。
そんな中でも元の部署とやり取りをする機会は残っています。そこでは、自分を出し過ぎないように気を付けていましたが、かなり出ていたようです。逆に元の部署が何も成果を出さないので、自ずと手を出していかないといけない状態。それも空回り。結局は何も成果が上がってきません。
色々な部署となやり取りを経験すると、部署ごとの質がここまで違っているのか、管理職の差によって違うのかと勉強になりました。元の部署がいかに酷くて、そこで何かを頑張ることがどれだけ意味がないことかも知りました。元の部署は、結果的にこれから非常に危うい状態になると思います。そう期待して2年経ちましたが、まだ大きな変化はありません。これからです。
依頼者である私から、依頼先の部署にできることは実はかなり限られています。その方法(言い方)にどういうものがあって、どこまでをどのタイミングで言えば良いかを考えるようになりました。ありていに言えば、「これ以上言っても意味がないから止める」という判断をいつ下すかという話。
同じ部署にはそういう話ができる仲間がいて、同じような悩みを持っていることも知りました。そして、それが自分たちではどうしようもないことも。
マネジメントを別の意味で知ることとなり勉強になった6年間とも言えます。
「離」に向かって
この6年間の仕事を経て、7年目からは「離」に入ります。
まずは、次もマネジメントの仕事を全力で取り組みます。病んでしまう人が多い部署と聞いています。自分がどこまでできるかチャレンジする最後の機会。
これが成功すれば、今の会社での道は開けます。と同時に、機電系エンジニアの道は完全に閉ざされます。その意味で「離」です。
逆に失敗すれば、元の機電系エンジニアの仕事に戻れるかもしれませんが、気分的には戻りたくないので会社を「離」することになるのでしょう。
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